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漢方偉人伝 大塚敬節(おおつかけいせつ)
「西漢方薬店 漢方チャンネル」に「漢方偉人伝 大塚敬節(おおつかけいせつ)」を公開しました!
病院で処方される漢方薬を現代へつないだ男。「昭和漢方の巨人」大塚敬節

病院で当たり前のように処方されている漢方薬が、かつて消滅寸前まで追い込まれていたことをご存知でしょうか。
もし一人の医師が立ち上がらなければ、現在の保険診療で漢方薬を受けられる環境は存在しなかったかもしれません。
今回は、「昭和漢方の巨人」と称され、日本の現代漢方医学の礎を築いた大塚敬節の生涯をご紹介します。

愛娘を失った悲しみが人生を変えた
大塚敬節は1900年、高知県の医師の家に生まれました。
西洋医学を学び、家業の医院を継いで地域医療に携わっていましたが、人生を大きく変える悲劇が訪れます。
まだ幼かった長女が、当時は有効な治療法のなかった疫痢によって命を落としてしまったのです。
最愛の娘を救えなかった無力感は、敬節を深い絶望へと突き落としました。
そして彼は、西洋医学だけでは救えない病があるのではないかと考え、漢方医学の古典を独学で学び始めます。

一人の少女が漢方医としての道を決定づけた
そんな敬節の運命を決定づけたのが、一人の少女との出会いでした。
一日に何度もけいれんを起こし、寝たきりとなっていた十歳の少女に、「甘麦大棗湯」を処方したのです。
すると数か月後、少女は見違えるように回復し、自分の足で学校へ通えるまでになりました。
この劇的な経験が、敬節に「漢方には人を救う力がある」という確信を与えます。
そして31歳の時、医院を閉め、家族を故郷に残して上京するという大きな決断を下しました。

流派を超えて漢方復興を目指した
上京後は、当時の漢方界の第一人者であった湯本求真のもとで学びます。
しかし、そこには一つの壁がありました。
当時の漢方界は流派ごとの対立が強く、他流派との交流はほとんど認められていなかったのです。
敬節は、この状況に強い危機感を抱きました。
「ただでさえ少ない漢方医同士が争っていては、漢方に未来はない。」
そう考えた敬節は、師の反対を受けながらも流派の垣根を越えた交流を積極的に進めます。
この柔軟な姿勢が、多くの医師を結びつけ、日本の漢方復興運動を大きく前進させました。

漢方だけにこだわらなかった名医
敬節が多くの医師から信頼された最大の理由は、漢方だけを絶対視しなかったことでした。
ある時、肺炎の治療について尋ねられると、彼は迷うことなくこう答えたと伝えられています。
「それはもちろんペニシリンだよ。」
病気を治すために最も有効な治療法を選ぶ。
そのためには西洋医学も積極的に取り入れるべきだという考えでした。
実際に、聴診器による診察や尿検査なども日常診療に活用し、漢方と西洋医学を対立するものではなく、互いに補い合う医療として考えていました。

現代漢方の礎を築いた功績
敬節の誠実で柔軟な医療姿勢は、西洋医学界にも大きな影響を与えます。
特に日本医師会会長を務めた武見太郎から厚い信頼を得たことは、日本の漢方医療にとって大きな転機となりました。

その後、日本初の東洋医学総合研究所の設立や、保険診療で使用される漢方エキス製剤の普及など、現在へ続く漢方医療の基盤が次々と整えられていきます。
私たちが病院で漢方薬を処方してもらえるのは、大塚敬節が流派や医学の垣根を越え、「患者さんを救う」という一点を貫いたからこそ実現したと言えるでしょう。
西漢方薬店ではオンラインでの漢方相談をおこなっております。
自分の症状にどのような漢方薬が合っているか、漢方の専門家にご相談ください。

この記事を書いた人

西漢方薬店 漢方処方アドバイザー
西 智彦(臨床歴20年)
鍼灸師、マッサージ師の国家資格と医薬品登録販売者の資格を持ち、学術発表症例発表実績として第24回経絡治療学会学術大会東京大会『肝虚寒証の症例腰痛症』等、また伝統漢方研究会会員論文集の学術論文からメディア取材まで幅広い実績もあります。
どうぞお一人で悩まずに、気軽にご相談ください。


