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漢方偉人伝 山田業広(やまだ なりひろ)と山田業精(やまだ なりきよ)
「西漢方薬店 漢方チャンネル」に「漢方偉人伝 山田業広(やまだ なりひろ)と山田業精(やまだ なりきよ)」を公開しました!
漢方医学はなぜ現代まで残ったのか? 命がけで伝統医療を守り抜いた山田業広・業精親子の物語
もし明治時代に漢方医学が完全に消滅していたら、私たちは現在のように漢方薬による治療を受けることはできなかったかもしれません。
実は、西洋医学への急速な転換の中で、消えかけた漢方医学を命がけで守ろうとした親子がいました。

その中心人物が、高崎藩の名医・山田業広と、その志を受け継いだ次男・山田業精です。
今回は、日本の漢方医学を未来へつないだ親子の知られざる物語をご紹介します。

明治維新で漢方医学は存亡の危機に
山田業広は、高崎藩を代表する名医として知られ、約300人もの弟子を育てた優れた教育者でもありました。
しかし、明治維新によって日本の医療制度は大きく変わります。
明治政府は富国強兵政策のもと、ドイツ医学を中心とした西洋医学を国家の医療制度として採用しました。
そして1875年、医師免許試験はすべて西洋医学の内容となり、新たな漢方医を育成する道が事実上閉ざされてしまいます。
長い歴史を持つ漢方医学は、消滅の危機に直面したのです。
山田業広が立ち上げた「温知社」
この危機的状況に立ち上がったのが山田業広でした。
彼は漢方医学を守るため、政治結社「温知社」を結成します。
温知社は、漢方医学の価値を訴え、存続を目指して活動した団体です。
業広は晩年のすべてをこの活動に捧げ、日本全国の漢方医たちと協力しながら、漢方存続のために奔走しました。
しかし、その志半ばで病に倒れ、この世を去ります。

父の遺志を継いだ山田業精
父の遺志を受け継いだのが、次男の山田業精でした。
業精は漢方医学だけでなく、東京大学の前身で西洋医学も学んだ、当時としては非常に珍しい経歴を持つ医師でした。
彼は、漢方と西洋医学は対立するものではなく、お互いの長所を生かすべきだと考えていました。
「古典医学を深く理解するためにも、西洋医学の知識は役立つ」
そう主張し、両医学の融合を訴えたのです。

理解されなかった先進的な考え
しかし、この考え方は当時の漢方医たちにはあまりにも革新的でした。
西洋医学を受け入れる姿勢は、「漢方の伝統を壊すもの」と受け取られ、味方であるはずの漢方陣営から激しい批判を受けてしまいます。
結果として業精は運動の第一線から退き、山田家の医師としての系譜もここで途絶えることとなりました。
時代を先取りしすぎた考えは、その当時には理解されなかったのです。

昭和になって再評価された功績
山田親子の功績は、長い間歴史の中に埋もれていました。
しかし昭和に入り、漢方医学が再び注目され始めると、その活動が見直されるようになります。
さらに1980年代には、中国・北京で山田業広の直筆原稿が発見されます。
この発見によって、親子が日本漢方の存続に果たした役割が改めて評価されることになりました。

現代へ受け継がれた漢方医学
現在、日本では医療用漢方製剤が保険診療で広く使用され、多くの医師が漢方を診療に取り入れています。
その背景には、明治という激動の時代に漢方医学を守ろうと命がけで活動した山田業広・業精親子の存在がありました。
もし彼らのような人々がいなければ、日本の漢方医学は歴史から消えていた可能性もあります。
現代まで受け継がれてきた漢方医学は、多くの先人たちの情熱と努力によって守られてきた、大切な文化遺産でもあるのです。

西漢方薬店ではオンラインでの漢方相談をおこなっております。
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この記事を書いた人

西漢方薬店 漢方処方アドバイザー
西 智彦(臨床歴20年)
鍼灸師、マッサージ師の国家資格と医薬品登録販売者の資格を持ち、学術発表症例発表実績として第24回経絡治療学会学術大会東京大会『肝虚寒証の症例腰痛症』等、また伝統漢方研究会会員論文集の学術論文からメディア取材まで幅広い実績もあります。
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